太平洋戦争の真っ只中、アマゾンから日本にいる家族にあて、2年にわたり綴り続けた手紙がさきごろ、ブラジル日本移民史料館(大井セリア館長)に寄贈された。日本との通信が断たれ、投函の見通しが立たない中、その生活ぶりやジュート栽培の様子、家族の安否を気遣う思いが便せんにびっしりと記されており、当時のアマゾン開拓者の実状を見ることができる貴重な手記だ。その中でも注目されるのが、サンパウロでも知るのが困難だった日本の戦況をアマゾン地域にいながら入手、正確にまた細かく把握している点。「日本が勝った」という情報が大勢で、抗争が生じたサンパウロ地方とは大きく異なり、日本の敗戦を受け入れ、日本の将来を危ぶんだ状況がよく表れている。
手紙の主は、アマゾン開拓のためビラ・アマゾニアに入植した高等拓殖学校3回生の池上欣二さん(96年4月死亡)。日本との連絡不通の下、熊本にいる両親に対し「いつになったら出せるのかわからないにもかかわらず、手紙を書くことに決心しました」と終戦の年の1945年2月1日に書き始めた。綴り足す格好で手紙は、終戦後の47年3月20日まで約2年続いた。
その中では、サンタレンからアマゾン川を北上したアレンケル郡で生活を送る池上家族の近況やその生活、またジュート栽培の状況や戦火にある日本の家族を心配する池上さんの心情が、色濃く出ている。その量は便せん11枚、43ページに上る。
戦後、日本との通信が回復した後も、この手紙は投函されることなく、現在ベレンに住む夫人の池上てるをさんが大事に持っていた。欣二さんが亡くなり、また子供たちが日本語の読み書きが困難なため今回、同手紙を史料館に寄せることにした。
手紙の中で、欣二さんは戦時中、連合国側となったブラジル人社会の日本人に対する非難の雰囲気とともに、同じくアマゾンに住む日本人からかき集めた日本軍の戦闘状況を細かく綴っている。日独伊人の住宅襲撃や乱暴、投石の中、「財産没収とまではいかなくても、(途中省略)捕縛、投獄でもされたら」と不安な心中を語る。
日本の戦況が厳しさを増す45年3月5日。「戦争も米国のものすごい生産拡充が物を言い、枢軸側は日に日に後退という非勢に陥り」とブラジル新聞の情報から、日本の状況を詳しく把握している様がうかがえる。
米軍が沖縄上陸の際にも、「かつて日本軍が支那軍に対して優勢であったと同じ理由で、米国は日本に対して優勢を示しています。沖縄を取られるような日本の海軍力では、もうこの戦争も残念ながら、我々に勝目はないと言わざるを得ず、私としては、いたずらに長嘆息するほかありません」と得た情報から客観的に分析する。
当時、敵国人だった日本人はあらゆる通信手段を封じされ、日本語新聞の発行停止、ラジオも没収といった極めて情報が不足した状態。隠し持ったラジオでこっそりと日本からの東京放送(大本営発表)を聞き、誰もが日本の勝利を信じていた時代だった。そんな時節に都会よりも情報量、通信手段ともに劣るアマゾン地域で戦争の有り様を熟知していたことを表す史料としては極めてまれだ。
サンパウロ人文科学研究所の宮尾進所長は、「サンパウロでも特に一部の人は、ブラジルの新聞や雑誌から情報を得ていたが、地方の日系集団地ではほとんど日本の戦況を正確に把握していた人はいない時代。アマゾンでポルトガル語の新聞を訳し、日本人同士で情報交換を行っていた様子を知る手記などはこれまでまずない」という。
池上さんの手紙は、戦時中の高拓生を中心とした日本人開拓者コミュニティーの関係の深さをよく物語っている。戦後、勝ち負け抗争があったサンパウロ日系人社会とは異なる、アマゾン日系人の状態が読み取れる手記だ。
(ニッケイ新聞より)